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日本ハムナイン「大社さん、やりました」

故大社前オーナーの遺影を見入る日本ハム小笠原(中央)(撮影・黒川智章)
故大社前オーナーの遺影を見入る日本ハム小笠原(中央)(撮影・黒川智章)

<プレーオフ第2ステージ:日本ハム1-0ソフトバンク>◇12日◇札幌ドーム

 天国で「日本ハムの父」がほほ笑んだ。05年4月27日、日本ハムの創業者で球団オーナーだった大社義規氏は、90歳でこの世を去った。一代で日本ハム本社を業界トップに育て上げ、73年に銀行の反対を押し切り前身の日拓ホームフライヤーズを買収した。野球を愛し「球界一、球場に足を運ぶオーナー」と呼ばれるほど心血を注いだ。25年ぶりの歓喜の瞬間、選手に抱えられた遺影の中でほほ笑んでいた。

 歓喜に沸く札幌ドームで、大社前オーナーの遺影が、小笠原から選手会長の金子に手渡された。選手と一緒にファンの前に並んだ。今年5月15日には交流戦中にもかかわらず、ヒルマン監督が香川県の墓前で手を合わせた。誰からも慕われたオーナーの夢がかなった。

 球団を愛し、優勝を信じ続けていた。毎年、沖縄キャンプ初日には「1番じゃないと。優勝してほしい」。お約束のようなその言葉に笑いが起こったこともあったが、本人は真剣だった。オープン戦の敗戦にも「練習試合でも勝たなあかんやろ」。周囲の「調整目的なのに」というせりふには耳も貸さない。「常に戦いを挑む集団たれ」とファイターズと名付けた。自身が「戦う人」だった。

 趣味はなかった。初めて夢中になったのが野球だった。会議では1時間に数度、メモが回った。試合のスコアが書かれていた。試合中には「選手に失礼だ」と好きな酒を一滴も飲まなかった。選手の名前と出身地まですべて覚えていた。選手の名簿を見つめ「ここの出身ならこんな性格かな」と想像を膨らませるのが好きだった。

 96年に、最愛の妻ヒサヱさんを失った。自身も肝臓がんと診断された。すぐに手術した。それでも情熱は冷めない。術後の8月、医師に知らせずチームの約6400キロの長期ロードに帯同。山形のホテル自室でつまずき、左目下を4針縫う大ケガまで負った。このころ、息子の啓二氏の大阪のマンションに同居し始めた。3LDKに家族5人。自室はなく居間に陣取った。衛星放送を設置し、日本ハムの試合を観戦した。

 02年8月、関連企業による牛肉偽装問題が発覚した。当時、父義規氏をオーナー職にとどまらせてほしいと発言したことで、バッシングを受けた啓二現オーナーは「身びいき過ぎるかもしれない。思いを込めた球団を取り上げられなかった」と振り返った。

 北海道移転。野球を観戦する機会が減ることになる。反対されるのを覚悟し話を切り出した啓二氏は、返事に耳を疑った。「ええやないか。それで、いつ勝てるんや」。04年4月2日の北海道での開幕戦。病院から車いすで札幌ドームに直行した。バックネット裏で詰め掛けた観衆を見て言った。「よく入っているなあ。夢のようやなあ」。

 2年後、その札幌ドームが歓喜に沸いた。選手たちが掲げた遺影が、少しだけ笑ったような気がした。

 ◆大社義規(おおこそ・よしのり) 1915年(大正4)2月1日、香川県大川郡津田町生まれ。42年に徳島市で徳島食肉加工場を創設、51年に株式組織とし徳島ハム株式会社を設立した。63年、鳥清ハムと合併し日本ハムに商号を変更した。「知名度がない」と現場から悲鳴が上がり、宣伝のためのスポーツ界への参入を考案。ゴルフ選手を所属させる案、バレーボールの実業団の創設案も出た。旧制高松中学の3年先輩だった三原修氏に相談。73年に日拓ホームフライヤーズを買収し、日本ハム球団初代オーナーに就任した。02年に牛肉偽装問題の責任を問われ引退し、オーナー職も失った。05年4月27日、心不全のため兵庫県内の病院で死去した。

[2006年10月13日9時56分 紙面から]

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